戻る

不定期宇宙船 No.14

片桐 哲



 『読書雑感』

  二十代の頃にはつきあい麻雀をよくやりましたが、あまり勝った記憶はありません。強い人はゲームの内容をあとで再現できるほどよく記憶していましたが、ボ クはまったく憶えていなかった。将棋のプロも指した一番はすべて憶えているようだから、ゲームやギャンプルのコツは記憶力らしい。
 読書に関しても、ボクは読み終えた本の内容は本を閉じたとたん忘れてしまい、面白かった本は面白かったという記憶しか残りません。憶えていなければならない義務もないしね。
  つまらない本は最後まで読まないことも多いし、もちろんまったく憶えていません。『罪と罰』は婆さんが殺されるところまでしか読めなかったし、『白痴』は たぶん三分の一くらいで投げてしまった。いま『カラマーゾフの兄弟』が売れているらしいのですが、まだ手を出しかねています。ドストエフスキーは鬼門なのです。

 ボクには、他の人がどのように本を読み、どのように感じているのかわかりません。なんとなく本を読むという行為について、全員が同じように読んでいると思ってはいませんか。ボクはひとりひとりまったく違う読み方をしているのではないかと疑っています。
  それは各人が頭の中に持っている辞書が違っているだろうという推測によります。各々の人生や学習や経験によって蓄積される言葉の辞書は、たぶん千差万別ではないでしょうか。小説の文章を読んだとき、そこに書かれた言葉によって想起されるイメージは、ボクとあなたとでは違うと思いませんか。作者の想いも、まったく別のイメージで捉えられる場合もあるはずです。
 そう考えれば、同じ本でも、読み始めたとたんに各々まったく違った本になる。本は読者が読んで始めて完結するというのは、そういうことではないかと思います。

 他の人は何を楽しみに本を読んでいるのでしょうか。たいていはストーリーの面白さだろうと想像するのだけれど。
 ボクの場合は、本の内容より、読んでいる時間を楽しんでいるという感覚です。もちろんストーリーが面白いことは重要ですが、内容よりも文章を読んでいるその状態を楽しんでいるといった方がいい。
 こういう読み方をしていると、内容よりも心地よい文体に出会う方が幸せになれることが多いですね。文章のリズムに乗っている内に、いつの間にか読み終えてしまう。小説に限らず、エッセイや実用書でも同じです。
 最近、保坂和志を読んでいたら、小説の愉しみは読んでいる時間の中にあるというくだりがあったので、まんざら間違った読書をしているわけでもないなと安心しました。

 世の中には、「速読」という読書の方法があるらしいのですが、ボクはより速く読みたいと思ったことがないので関心はありません。昔も今も、一時間に百ページくらいのペースで読んでいます。
 最近では歳のせいなのか、集中力の持続が短時間になってしまったので、十代の頃のように、一日に一冊は読めなくなりました。現在のペースは週に二冊程度で、年間百冊くらいのものでしょうか。
 桜花の咲き乱れる季節がまた巡ってきますが、ボクは花見よりも、あと何冊の本が読めるだろうかと思います。


(2008.3.1)

inserted by FC2 system