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SFマガジン思い出帳 第10回

雫石 鉄也







1967年12月号 No.102

 創作は次の6編。
    銀河を呼ぶ声石原藤夫
    名誉ある敵ポール・アンダーソン
    若さで生きぬこうルシアス・ダニエル
    見えない村クリフォード・D・シマック
    成年者(前編)ラリイ・ナイブン
    EXPO87(第5回)眉村卓
 ラリイ・ナイブンとはラリー・ニーブンのこと。昔はこういったんですね。
この号が発売されたのは1967年10月25日。この2ヶ月の8月25日付け朝日新聞夕刊文化面の〈標的〉というコラムに次のような文が載った。以下
同誌同号より引用。

 SFはなぜ、こうもつまらないものが多いのか。つまらないのに、なぜ、批判されないのか。それとも、とりあげるにたらないのか。それにしても、SF作家が、未来学とやらに登場し、したり顔で発言するとなると、ひとこといった方がよいと思う。
 日本SFシリーズなどを読むと、出会うのは、新種の微生物登場、人類絶滅とか、地球が破壊しようとするうんぬんと、またか、またかのパターンが多い。「宇宙喜劇」などと、かけ声はいさましいが、人類滅亡一歩前をえがく『復活の日』の作者などは、たとえば、エレンブルクの『トラストDE』を読んでいるはずだから、自分の軽薄さに気づいているはずである。だから自作を『一切の「科学(サイエンス)」を総合してみて、それを人間の「意識」を媒介として、1個の「フィクション」に結晶(クリスタライズ)させ』たものとは考えてはいまい。これと関連することだが、構想力がなんと貧弱なことだろう。たとえば、国際生化学会議の話題を、SF作家は、どんな顔で読むのだろうか。新聞で伝えられるかぎりでも、「科学」の方がSFより、本質的になんと「フィクシァス」ではないか。まさか、現実は「フィクション」より奇なりとおさまっているわけではあるまい。
 問題意識が浅く、「フィクシァス」ではないSF作家が、変革性のすこしもない未来学に行くのは、当然のことである。
(X)

 以上引用終わり。
 このコラム、小生は朝日の夕刊でリアルタイムで読んでいる。当時、すでにSFファンだった小生は、読んで怒りというより、唐突な感じがした。
 この時期、SFという言葉がマスコミで取り上げられることが少なく、突然、このコラムが掲載されたわけ。若かったこともあり、SFもんとしての経験も浅かったから、ヘー、と思っただけだった。
 ところがこのコラムを読んで小松左京氏は怒り心頭に発していた。当然だろう。この一文は小松氏にケンカをふっかけている。で、小松氏はケンカを買って、SFマガジンのこの号で「“日本のSF”をめぐって‐ミスターXへの公開状‐」と題する反論を載せている。
 この公開質問状、反論であると同時に、見事なSF論になっている。小松氏の著作のどれかに収録されているのだろうか。
 それにしても文章を書くということは怖い。40年経っても、こうして憶えている人がいて、こうしてこんな恥ずかしい文を紹介されるわけ。小生もブログをやったり作品を書いたり、こうしてこんな文を書いているわけだから気をつけよう。
 それにしても当時の朝日の文化部はどういう意図でこんなコラムを夕刊に掲載したのだろう。お読みいただければ判るが、この一文、なんら建設的な意識は感じられない。感情的にSF作家が気にくわん、といっているだけ。気にくわんのなら気にくわんでけっこう。ただSFという、当時としては若いジャンルの可能性を見出そうという気がまったくない。少なくとも大新聞の文化面。こんな進取の気性のないことでいいのだったのだろうか。
 このミスターXは日本SFシリーズの小松左京「復活の日」1冊だけを読んでこのコラムを書いたのはあきらか。日本SFシリーズ。いまなら早川のJコレクションがその仕事をしている叢書だろう。
 もし、このミスターXが円城塔とか田中啓文だけを読んでこのようなコラムを書いたらなんといわれるだろう。


(2008.2)

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