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SFマガジン思い出帳 第14回

雫石 鉄也







1969年8月号 No.123

 掲載作
    水蜘蛛計画 伊藤典夫訳フィリップ・K・ディック
    闇よりも暗く 鏡明訳ハーラン・エリスン
    いちご摘み 岡部宏之訳ポール・アンダースン
    人類の罠 井上一夫訳ロバート・シェクリイ
    中性子星 浅倉久志訳ラリイ・ニーブン
    幽霊宇宙服 中桐雅夫訳アーサー・C・クラーク
    帰郷 忍田邦明訳ウィリアム・F・ノーラン

 この号で編集長が福島正実から森優に変わっている。福島氏は1976年に亡くなり、小生は生前の福島氏とお会いしたことはもちろん、お見受けしたこともない。それでも、巻頭ページの「編集前記」で書かれていることや、同氏について書かれたエッセイ、人の噂などで、かなりクセのある人物であることは想像できた。
 福島氏がSFマガジン編集長の職を辞する遠因となったのは、この年の2月号での覆面座談会(当コラム第3回参照)であったのは間違いないだろう。小生も、このコラムの第3回目を書く時に同号の件の座談会を読み直したが、確かにかなりきついことをいわれている作家もいる。この件に関しては第3回で書いたので、ここで繰り返さないが、なぜ、この座談会が、これほど、後々まで禍根を残すことになったか考えてみた。まず、覆面であった。出席しているメンバーである福島正実、石川喬司に対してはお手柔らか、出席していない小松左京、筒井康隆、豊田有恒たちに対してはきつい発言を浴びせている。特に豊田有恒にたいしての発言はひどい。
 そして、これが一番だが、編集長の福島がメンバーにいること。これが一番問題だったのだろう。雑誌の編集長であるからには、執筆者を擁護する立場であらねばならない。それがかなりきついことをいっている。今なら許容範囲ともいえるが、当時はSFマガジンはSFを発表できる唯一の場。そこの編集長がかような座談会できついことをいう。これは当時のSF作家たちにとっては看過できない問題だったことは理解できる。
 このNo.123号に、福島氏は「それでは一応さようなら」と別れの一文を書いているが、その文でこんなことをいっている。以下、同号より抜粋。
 
 SFはここまで来た。だからこそいまSF界をより更に前進させるためには、
批評が必要なのです。ぬくぬくと、ぬるま湯に浸って泰平の夢をむさぼっていて、いったい何がSFか。
 批評を嫌い、批判されたことを恨み、未練がましくあげつらう精神で、いったいなぜ、SFが書けるか。多少の批判をされたからというので、気落ちして書けなくなるような、そんな女々しい人間は、もともとものを書くべきではなかった。そんな弱々しい作家は、消えてなくなればいいのです。


 確かに批評は必要である。しかし機会があればお読みいただきたいが、あの座談会は批評というより悪口であった。
 SFはここまで来た。とのことだが、1969年の日本のSFの状態は、「ここまで」というより「やっとここまで」というべきだと小生は思う。
 福島正実は、SFマガジン初代編集長として、また、海外SFの翻訳者、紹介者として、日本のSFの定着発展に非常に大きな貢献をしたといえば、多くに人が賛成してくれるだろう。小生は、福島正実、矢野徹、柴野拓美の3氏を日本SF3大恩人と考えている。
 しかし、上記のように、福島はかなり強固な鋳型を持っていて、その鋳型で、日本のSFを創りあげようと考えていた。だから、この福島の鋳型にはまらない作家、例えば半村良などは、福島時代は不遇をかこっていたのではないか。
 しかし、福島がこのように、強引に事を進めた方こそ、とりあえずは日本SFは軌道に乗ったともいえる。
 このように福島正実の貢献は評価すべきだが、跡を継いだ森優の仕事も大いに評価すべきだと思う。福島の鋳型がなくなったわけである。だから半村良などは、森時代になって一気に開花したといえよう。また、森優時代になってハヤカワ文庫が発刊され、SFをエンタティメントとしてとらえて、日本の読書好きにSFを重要なジャンルとして定着させたのは、森優の大きな功績である。
 ともかく、初代福島正実、2代目森優、この二人のSFマガジン編集長がいたからこそ、現代の日本のSFがあったといっても過言ではないだろう。
 

(2008.6)

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