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SFマガジン思い出帳 第95回

雫石 鉄也







1974年5月号 No.185

掲載作

ビー
半村良
苦痛指向
伊藤典夫訳 ジェイムズ・ティプトリーJr
男が椅子に腰をかけ 椅子が男の脚を齧む
野口幸夫訳 ロバート・シェクリイ&ハーラン・エリスン
心のパートナー
浅倉久志訳 クリストファー・アンヴィル
先住種族
沢ゆり子訳 フリッツ・ライバー
太陽に覆いを 
石川智嗣訳 アイザック・アシモフ
白魔鬼神道 新妖幻記・白魔傳控帖 その4
荒巻義雄
宇宙船『オロモルフ号』の危機
石原藤夫 
SFエッセイ
ロン先生の虫眼鏡 第9回 金魚、この遠い日の夢
光瀬龍
日本SFこてん古典 第14回 
“おのこ草子”珍騒動
横田順彌
連載評論 幻想小説の方へ 
夢の言葉・言葉の夢 第8回 作用について
川又千秋
SFスキャナー
ご存知、野田昌宏氏の近況など
野田昌宏
思考の憶え描き 連載13
暗闇計画 
真鍋博

 この号で編集長の森優が退任する。初代福島正美の後を継いで5年近く、SFマガジンの号数にして62号を森は担当した。福島は文芸としてのSFを、その頂を高めることに心血を注いだ。福島の後、2代目SFマガジン編集長となった森は、SFのすそ野を広げることに尽力した。
 福島正美の日本SFに果たした功績は計り知れないが、福島路線のままだと、日本のSFは上質な文芸となったであろうが、一部好事家が愛好する偏狭な文芸ジャンルになったかも知れない。だから、エンタティメントとしてのSFに焦点を当てた森編集長の方向性は、その後の日本SFの発展を考えると、なくてはならないものといえる。森優も福島正美と並ぶ日本SFの大功労者なのだ。
 さて、この号は連載が1編。読み切りが7編。先月号1974年4月号とまったく同じボリュームである。今のSFマガジンもこういう編集方針でやって欲しい。おかしげなタイアップちょうちん企画や、さして興味のない特集で紙面を埋めずに、SF専門誌なんだから、SFを読ませてくれればいいんだ。この25日(2015年2月25日)に隔月刊化で初めての号が出る。いかなる紙面刷新をするか括目して見たい。
「ビー」半村良の泉鏡花文学賞受賞後の最新作。子供の遊びのビー玉に大人も熱中する。世界的なスポーツとなり、使うガラスの玉が円より強い通貨になった。
「苦痛指向」その宇宙飛行士は苦痛に親しんでいる男だった。作品の終わり近くに料理関連用語が出てきて、訳者の伊藤典夫が訳注を付けているが、料理を趣味とする小生(雫石)はだいたい知っていた。
「男が椅子に腰をかけ 椅子が男の脚を齧む」くたばれグー!グーって何?シェクリイとエリスンの合作!という珍品。
「心のパートナー」夢オチのつるべ撃ち。夢を見させる麻薬。潜入した捜査官。どれが夢か現実か?
「先住種族」考古学者と探検家の会話。話題はある星の先住種族のこと。オチは「人間じゃない」
「太陽に覆いを」太陽系内の新航路開拓。水星軌道より内側を通る。太陽に近い。暑いどころかものすごく寒い。なぜか。
「白魔鬼神道」平賀源内、時駕籠の製作に没頭す。「西洋婦人之図」(神戸市立南蛮美術館蔵。当時のこと。南蛮美術館は今はない。神戸市立博物館に吸収)は、ほんとに源内の筆になるものか?
「宇宙船『オロモルフ号』の危機」破滅の使者来る。『オロモルフ号』が迎え撃つ。この作品、難解である。
「ロン先生の虫眼鏡」前回までは鳥の話だったが、今回は魚の話。観賞魚のこと。熱帯魚と金魚である。光瀬が中国に行った時のこと。路上に見事な金魚を並べている老人がいた。案内人は彼を「先生」という。聞けば有名な金魚の品種改良家。老人は金魚を売っているのではなく展示している。それは金魚の芸術家の個展だったのだ。
 小生(雫石)も阪神大震災以前は水槽を二つ設置して熱帯魚を飼っていた。このように今は、熱帯魚飼育は貧乏人でもできる趣味だが、昔はいまのような便利な器具もないし、電気代もかかるから余裕のある好事家してできない趣味だった。光瀬は若いころ駐日アメリカ軍の将校の家でハウス・ボーイのアルバイトをしてた。その家で熱帯魚を飼っていた。生き物好きな光瀬は水槽をながめ、日米の国力の差を思い知らされた。その家の婦人は少年光瀬の前で平気で着替えをする。彼女にとって日本人の少年など人間ではない。犬や猫に着替えを見られても恥ずかしくないだろう。
「てれぽーと」のページに第13回日本SF大会MIYACONの広告が。小生が初めて参加したSF大会である。会場は、星群祭でも使ったことがあるし、毎年京都SFフェスティバルの会場となる、京都教育文化センター。あそこ、40年経っても変らんなあ。
 最終のページに「狼のレクイエム」と「鳥人大系」休載のお知らせ。平井和正、手塚治虫両氏のやむをえない事情とのこと。平井は次号で平井自信が釈明する。1974年6月号を紹介する次回第96回で言及する。手塚の事情はなんだろう。たぶん原稿をオトしたのではないか。1974年は「ブラック・ジャック」が少年チャンピオンに連載し始めて1年目。手塚はそれまで漫画家生活最大のスランプであった。それが「ブラック・ジャック」で復活を果たした。そのあたりのカラミが関係しているのではないか。

(2015.3)
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