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とつぜんコラム No.35

雫石 鉄也





 今年(2004年)の年末公開の50周年記念作で「ゴジラ」の製作が打ち切られるとのこと。なんでも観客動員数が大幅に減少したためとか。ようするに人気がなくなったということ。少々さみしい気もするがこれも時代の流れ、しかたがない。
 「XX世代」といういい方がある。小生たち昭和20年代生まれは「団塊の世代」「手塚世代」。このいい方を映画にあてはめれば「ゴジラ世代」といっていいだろう。第1作の公開が1954年。小生が5歳の時。ゴジラとともに育ってきたのが小生たちの世代だ。子供のころよく親にねだって東宝の封切り館に連れて行ってもらった。ゴジラを中心とする特撮映画と「クレージー」「若大将」「駅前」との2本立てだった。明日ゴジラ映画を見に行くという日は楽しみで楽しみで夜も眠れないほど。
 個人的な思い出話はさておき、50年にもわたって人気を保ちハリウッドにまで輸出されたゴジラがなぜ時代の流れに流されて消えていくのか考えてみよう。ゴジラは私たち日本人の不安の象徴として生まれた荒ぶる神だった。アメリカとソ連の核開発競争による核戦争の恐怖。その恐怖が具現化したものとして描かれたもの。核も人間が作り出した兵器の一種だが通常の兵器とは次元が違う。従ってそれの象徴であるゴジラは自衛隊の通常兵器では歯が立たないのは当然。人知を超える存在が現実の日常の風景、東京タワーやら国会議事堂などを破壊する。そこに恐怖とカタルシスを感じるわけ。シリーズで繰り返し描かれてきた怪獣同士のバトルロワイヤルは核大国同士の戦争であって、われわれ日本人にとっては人知を超える存在同士が勝手に戦っているわけで、人知を超えない日本人たちにとっては究極の大迷惑なわけ。
 50年もの間には科学も進歩して人知が広がった。すると人知を超える怪獣のごとき怪しのモノの生息する場所も狭くなる。それと比例してゴジラ映画の観客数が減少してきたのだろう。そして、決定的となったのは、阪神大震災と9・11同時多発テロ。いずれも映画の中でゴジラたち怪獣がせっせと創り出していた風景を、映画ではなく現実の世界に現出した。ゴジラを観て怪我をしたり知人を亡くした事はないが、阪神大震災では家から脱出の際足を負傷したし、何人かの知人が亡くなっている。
 地震は人知の範囲内であるが人知では制御できない巨大なエネルギー。テロは人間の憎悪という人知そのもの。それがゴジラが生み出した世界と同じ、いや直接物理的に私たちふりかかるという意味ではより切迫した形で私たちと対峙してきた。阪神大震災と9・11同時多発テロを知ってしまった私たちにとって、ゴジラは必要ではなくなったのである。
 とはいうものの、小生はゴジラは必ず復活すると思う。いくら科学が進歩しても「人知を超える」ゾーンは必ず存在するわけだから、今後どのような世界を私たちが見るのかわからないが、人間の知識が完璧でない限りゴジラは必ず復活するだろう。

(2004.5)

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